
No.62 吹奏楽に「生きる」
一昨年の7月、私は入院してしまいました。プロ野球の長島監督やサッカーのオシム監督と同じ病気です。
集中治療室で私は死んだも同然で横たわっていました。手足は動かない、耳は聞こえない、ものはだぶって見える、声も出ない、そしてものすごい頭痛と吐き気…。
吹奏楽コンクールを前にして、そんな絶望的な状況に陥ってしまいました。
まして、この年は高校文化連盟の全国大会が京都であり、私の学校は埼玉県代表として選出されていました。
「もう一度絶対に生徒と一緒に吹奏楽をやる」
そんな気持ちで病気と戦いました。右手が動くようになったら、まず集中治療室の中でも指揮の練習をしました。
それがよかったのか、障害がほとんど残らず、生徒のもとに戻ることができました。主治医にわがままを言って、3年生の引退式に出席をし、この年のコンクールの課題曲と自由曲を指揮させてもらいました。ただ、この年の3年生とともに夏を過ごせず、コンクールでも結果が出なかったのは、本当に心残りでした。
そして去年の夏、私は現場に復帰していましたが、体力の低下は如何ともしがたく、生徒の練習をみることもままならない状態でした。そんな中でも生徒たちは一生懸命練習をして、吹奏楽コンクール高校Aの部で県大会に進むことができました。この年の卒業生が県大会進出を一緒に喜んでくれたのが、とても嬉しいことでした。
私は、生徒と一緒に吹奏楽をやれることが、こんなにも幸せなのだということを実感し、感動していました。そして、大変な中、部活動を支えてくださった副顧問の先生方には感謝の言葉もありません。
これからも生徒とともに、吹奏楽を、音楽をやれる喜びを、自分たちだけではなく、人にも伝えられたらと思います。
集中治療室で私は死んだも同然で横たわっていました。手足は動かない、耳は聞こえない、ものはだぶって見える、声も出ない、そしてものすごい頭痛と吐き気…。
吹奏楽コンクールを前にして、そんな絶望的な状況に陥ってしまいました。
まして、この年は高校文化連盟の全国大会が京都であり、私の学校は埼玉県代表として選出されていました。
「もう一度絶対に生徒と一緒に吹奏楽をやる」
そんな気持ちで病気と戦いました。右手が動くようになったら、まず集中治療室の中でも指揮の練習をしました。
それがよかったのか、障害がほとんど残らず、生徒のもとに戻ることができました。主治医にわがままを言って、3年生の引退式に出席をし、この年のコンクールの課題曲と自由曲を指揮させてもらいました。ただ、この年の3年生とともに夏を過ごせず、コンクールでも結果が出なかったのは、本当に心残りでした。
そして去年の夏、私は現場に復帰していましたが、体力の低下は如何ともしがたく、生徒の練習をみることもままならない状態でした。そんな中でも生徒たちは一生懸命練習をして、吹奏楽コンクール高校Aの部で県大会に進むことができました。この年の卒業生が県大会進出を一緒に喜んでくれたのが、とても嬉しいことでした。
私は、生徒と一緒に吹奏楽をやれることが、こんなにも幸せなのだということを実感し、感動していました。そして、大変な中、部活動を支えてくださった副顧問の先生方には感謝の言葉もありません。
これからも生徒とともに、吹奏楽を、音楽をやれる喜びを、自分たちだけではなく、人にも伝えられたらと思います。
埼玉県立春日部東高校吹奏楽部
柳井 孝行
団員数:男子18名 女子78名 ※団員数は掲載当時のものです。
モットー:伝える音楽を 伝わる音楽を